バラの歴史

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねて
おられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました。有難うございました。

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねて
おられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました。有難うございました。
「バラ図鑑」からご紹介してきたバラの歴史も、いよいよ最終回になります。
『バラを国花として定めている国で、有名なのはイギリスです。アメリカも1986年にバラを国花と制定しています。近年、この両国が主導して戦争となった相手国イラクの、多数を占めるイスラム教シーア派の象徴も赤いバラであることは、なんと皮肉なことでしょう。
心の平穏を求める宗教に利用され、血生臭い戦争の場にも存在し、華やかな王侯貴族の宮殿の庭を飾り、民衆の生活の潤いとして、いつでもバラは人間を見守ってきました。
人間の歴史にこれほど影響を及ぼした花は、他にありません。
バラは、その花の美しさや、心地よい香りで人々に好まれ、世界各地の文化に深くかかわってきました。
そして今でも多くのすばらしい花が生み出されつつあります。
世界中で最も親しまれ愛されている花は、バラなのです。』
講談社刊 『バラ図鑑』 の表紙

20回にわたりご紹介してきた<バラの歴史>の原典です。
ご理解いただいた講談社に感謝申し上げます
引き続きバラの歴史を「バラ図鑑」で見てみましょう。
『これらの中には、イギリスのディビッド・オースチンの「イングリッシュ・ローズ」に代表される、クラシックな花形をもつバラや、極矮小なミニバラ、ハイブリッド・ティ種やフロリバンダ種との交配による中間的な品種などがあり、従来の系統分類に属さない品種が次々と誕生しています。
ほぼ全色出揃った感のある花色にしても、わずかな可能性を求めて「青いバラ」への挑戦は続いています。バラの育種はまだまだ思いもかけない新しい分野への広がりを見せてくれることでしょう。
豪華な現代バラが隆盛を誇る一方で、しばらく忘れられていた素朴な原種やオールド・ローズが、新たに見直されているというのも、バラの懐の深さを感じさせます。』
グラハム・トーマス(1983年作出)

イングリッシュ・ローズの名花<グラハム・トーマス>です
講談社刊「バラ図鑑」より

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねて
おられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました。有難うございました。
バラ世界の隆盛を「バラ図鑑」で続けて見ましょう。
『ヒマラヤ山系に生まれ、東西に分かれたバラたちは、何千万年もの時を重ねた後、ほんの200年ほど前にマルメゾン宮殿で再会し、多くの華やかな品種を生み出し始めました。
性質を異にする2つの宗教と出合い、いく多の戦争のたびに大きく地域を広げて移動し、放浪した末のことです。
永いバラの歴史からすれば、200年などわずかなことでしょうが、この間の交配や栽培技術の急速な発達により、今日のバラ世界は大変な隆盛を迎えています。
現在、バラの品種数は5万とも10万ともいわれ、毎年、全世界の育種家たちが新しい品種を送り出しています。花の大きさや花色の鮮やかさはもちろん、耐病性の向上、花もちのよさなどが育種の目標となり、追求されています。』
マルメゾン宮殿

いよいよ名花<ラ・フランス>の誕生を「バラ図鑑」で見てみましょう。
『1867年、フランスのギヨーが作出したラ・フランスは最初のハイブリッド・ティ種(HT)とされています。
美しい花形と雄大な花容、完全な連続開花性で人々を魅了し、HT種はその後のバラ世界を
席巻していきます。
1942年フランスのメイヤン作出のマダム・A・メイヤンは、第二次世界大戦の終結とともに、
アメリカから「ピース」の名で発表されます。
それまでのHT種に比べてはるかに大きな花、耐病性に優れた肉厚の葉をもち、
強健に育つ樹形などは、世界中を驚かせました。
長く過酷な戦争から解放され、平和への願望が高まるなか、雄大で力強く育つ
豪華なバラ、ピースは、世界中をバラブームへと巻き込んでいきます。』
ラ・フランス(1867年作出)

1867年作出・最初のハイブリッド・ティ <ラ・フランス>です。講談社刊「バラ図鑑」より
ジョセフィーヌのその後を「バラ図鑑」でみてみましょう。
『バラの歴史にとって画期的であったのは、ジョセフィーヌが単に品種を集めただけ
でなく、専門の園芸家に交配育種を行わせたことです。アンドレ・デュポンは、初め
てバラの人工交配に成功した園芸家として知られています。
ジョセフィーヌは専門の造園家に命じて、マルメゾン宮殿にバラ園を造らせます。
このバラ園は、世界中で最も多くのバラの品種を集め、新しい品種を次々と生み出し
たことで、外国からも賞賛され、ナポレオンの失脚後も、折々の権力者からしっかり
と保護されました。
マルメゾン宮殿のバラ園では、ジョセフィーヌの没後も新品種の作出が続けられ、
19世紀半ばまでに3000種を越えたといわれています。このことから、ジョセ
フィーヌは今日でも、「バラのパトロン」とよばれ、賞賛されているのです。』
ジョセフィーヌ

ナポレオン皇帝妃ジョセフィーヌ・ド・ボアルネは、一男、一女を連れてナポレオン
と再婚した恋多き女性でした。彼女は再婚後も次々と愛人を作り、浮気を繰り返した
と伝えられております。ナポレオンも他の女性達に関心を持つようになり、ジョセ
フィーヌとの間に世継ぎができなかったことから、結局は離婚しました。
しかし、ナポレオンはジョセフィーヌに対し、終生「皇后」の称号と待遇を与え続け
たといわれております。
1814年、ジョセフィーヌが死の床で最後に発した言葉は「ナポレオン・・」であり、
1821年、ナポレオンが幽閉先のセント・ヘレナ島の死の床で最後に発した言葉は、
「ジョセフィーヌ・・」であったと伝えられております。
いつの世にも、誰にも、無常はあるものです。

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねて
おられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました、有難うございました。
「バラ図鑑」でその後の歴史を見てみましょう。
『18世紀になると、バラは香料用や薬用だけでなく、花の美しさも大いに賛美され、詩や音楽、
絵画や彫刻、家具や織物のモチーフとして、好んで使われるようになりました。
庭園にはなくてはならない存在となり、本格的なバラ園が造られるようになりました。
フランス革命を背景に、バラの世界にも大きな変革がもたらされました。
フランス革命の立役者、ナポレオン皇帝妃のジョセフィーヌ(1763~1814)が、その人です。
パリ郊外のマルメゾン宮殿に暮らすようになったジョセフィーヌは、ナポレオン(1769~1821)の
遠征先や海外への渡航者たちから、バラの原種や栽培種を持ち帰らせました。ジョセフィーヌが
集めたバラは、遠く中国や日本のものを含めて300種に及んだといわれています。』
ナポレオン

ナポレオンを描いたダヴィトの有名な作品
ナポレオン・ボナパルト:ナポレオン皇帝はパリの凱旋門を建て、「余の辞書に不可能の文字はない」
と言い、フランスでは今なお不滅の英雄として崇拝されているようです。
ナポレオンは、1769年コルシカ島で生まれ、フランス革命後のフランスをまとめあげ、帝政を敷き
35歳で皇帝につきました。
ナポレオン戦争と呼ばれる華々しい戦争を展開し、一時はロシアのモスクワにも入城するなど、
イギリスを除く全ヨーロッパを席捲しました。
しかし、1812年の暮れ、ロシアの厳しい『冬将軍』に遭遇し退却したあとは、ヨーロッパ諸国の同盟軍の反撃に遭い、遂には退位し、捕らわれ、セント・ヘレナ島に幽閉され、1821年病死しました、
51歳でした。一説には毒殺説もあります。
バラ図鑑」でその後の歴史をたどりましょう。
『バラ水が世俗的な香水として使われるようになり、その隆盛を極めたのが、フランスのルイ王朝の
時代です。
ルイ14世(1638~1715)は「太陽王」と呼ばれ、ベルサイユ宮殿全体に、毎日バラ水を振りまく
ほどでした。次代のルイ15世(1710~74)の愛人ポンパドール夫人(1721~64)の香水好きは
異常なほどで、莫大な金をバラ香油や花のために費やし、絵や陶磁器のデザインにも、バラの
モチーフを多く使わせました。
また、ルイ16世(1754~93)の妃となったマリー・アントワネット(1755~93)は、フランス革命に
より生涯を終えるまでベルサイユ宮殿に暮らし、バラの花と香水のためだけといってよいほどの
日々を過ごしたのです。その浪費ぶりも民衆の怒りを買う一因となったのでしょう。』
ベルサイユ宮殿

ご存知ベルサイユ宮殿
1662年着工し約50年の歳月を要して完成したと伝えられる、フランス王国絶頂期の「太陽王」と
呼ばれたルイ14世が建てた宮殿です。
栄華を極めたブルボン王朝も、ルイ16世とかの王妃マリー・アントワネットの時代になると国家の
経済は疲弊し、1789年のフランス革命へと流れていくのでした。
豪華絢爛のベルサイユ宮殿であるが故に、ルイ16世とマリー・アントワネットの悲惨な最期を強く
想い起こさせるものがあります。
一度訪れガイドされたとき、ベルサイユ宮殿には当時トイレがなかった、そのために香水が多量に
用いられ、女性のハイヒールもそのために生まれた、と聞きました。 ?
「バラ図鑑」でその後の話を見てみましょう。
『ダマスク・ローズの変異種で、1本の樹で白とピンクに咲き分ける品種、ロサ・ダマスケナ・ベルシコロールは「ヨーク・アンド・ランカスター」とよばれています。
これはイギルスで1455年から30年間続いた「バラ戦争」で、ヨーク家が白バラを、ランカスター家が赤バラを紋章にしていたことにちなみます(実際のランカスター家の紋章は白鳥)。
バラ戦争は、1485年にランカスター家が勝利し、テューダー朝を開いて終結します。テューダー朝はその紋章に、赤バラと白バラを組み合わせて使用し、現在のイギリス王朝へと引き継がれています。
イギリスには重要なバラの原種はなく、西アジアなどからの有用原種は、ヨーロッパではいちばん遅く伝わりました。それでも、世界中で最も園芸好きの国民性からか、すぐにバラの優れた多用性が認められ、12世紀ごろにはすでに「バラ園」が造られていたといわれています。』


講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねて
おられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました、有難うございました。
「バラ図鑑」でその後をみると『遠征した兵士たちは、西アジアでイスラム教徒たちが使っていたバラ香水の虜(とりこ)になり、入浴の習慣までも受け入れ、香料用に栽培されていたバラとともにヨーロッパ各地へもち帰ったのです。このため、途絶えていたダマスク・ローズも復活しました。これらは南フランスを中心に、香料用として大々的に栽培され、各地の庭園にも植えられるようになりました。
バラ香油の生産は現在でも盛んで、南フランスのグラースが最も有名です。ブルガリアのカザンリクも名高く、トルコ、インド、アルジェリアなどでもつくられています。使われるバラの品種は、初期のガリカ・ローズではなく、ダマスク・ローズが中心です。』
南フランス グラース
南フランス グラースの地名が出ておりましたが、一寸調べてみると、ここはカンヌの少し北の山あいにあり風光明媚、いかにもフランスの田舎風の町といったところのようです。

グラースはもともと革製品の産地でしたが、16世紀になって香りをしみ込ませた皮手袋が人気となり大いに流行したことから、香水の製造が始まったと伝えられております。
現在では、香りの都として世界中が認める香水のメッカとなっており、シャネルやディオールなどの有名ブランドもすべて、このグラースから生れております。
町には国際香水博物館があり、香水工場で実際に使用されている機械や、伝統的な香水製法の器具などが多数展示されております。
その後を「バラ図鑑」で見ると、「9世紀になり、フランク国王カール大帝(742~814)がドイツ、フランス、イタリアにまたがる大帝国を築き、国情が治まると、人々の生活も安定し、バラの栽培も再び各地で行われるようになりました。この後、十字軍の遠征を機に、バラは再び大きな広がりを見せ始めます。
十字軍の遠征は11世紀の末に、イスラム教徒から聖地エルサレムを奪回する目的で始められ、13世紀にかけておよそ8回にわたって行われました。十字軍は結局失敗に終わるのですが、200年にもわたって戦争が続いたことで、西欧社会はイスラム教文化の影響を強く受けることになったのです」
カール大帝は768年、フランク国王ピピン3世の跡を継いでカール1世となるや、北イタリアのロンバルト王国を滅ぼし、サクソン族を服属させそのキリスト教化に成功しました。その後もさらに積極的な遠征を繰り返し、領土はドイツ・フランス・イタリアなどを含む西ヨーロッパ全土に及びました。カール1世は所領をローマ教皇に寄進するなどして、ローマ教皇の世俗の権力の確立に協力した業績で、ローマ教皇から帝冠を授かり西ローマ帝国の皇帝となったのです。こうしてキリスト教がヨーロッパの支配者としての地位を確立していったのですが、このことからカールは<大帝>と呼ばれることになったといわれております。

ニュルンベルク博物館・リーフレットより カール大帝
その後の人々の入浴とバラの関係を「バラ図鑑」で見ると
『コンスタンティヌス帝(274ごろ~337)は、増え続ける教徒を無視できなくなり、
キリスト教を公認(313年、ミラノ勅令)しますが、以降、17世紀の疫病の流行で、
入浴によって身体を清潔に保つことが必要と認識されるまでの永い間、入浴の習慣が途絶えてしまったほどです。
しかし、バラがまったく必要とされなくなったわけではありません。各地の教会や、外界から閉鎖されていた修道院では、限定的に薬用としてのバラの栽培が続いていました。
薬用とはいえ、バラの香りや花の美しさには、無視できない魅力があり、次第に王侯貴族の庭園にも植えられるようになりました。それでもこのころのヨーロッパでは、各地で戦乱が続き、民衆はバラどころではなく、一般に広まることはありませんでした』
コンスタンティヌス帝は、古代ローマ帝国を再統一して皇帝となり、専制君主制を発展させたことから、コンスタンティヌス大帝と呼ばれ有名です。また、大帝の母ヘレナがキリスト教徒であったことから、もともとキリスト教に好意的でありましたが、後、これを公認して、その後のキリスト教の政治的社会的発展の基盤を築いたとして、多くの教会で聖人として崇められております。
<パリの凱旋門>のモデルとなったといわれている、ローマで最大の高さ28メートルの<コンスタンティヌス帝の凱旋門>は、マクセンティウスに対する大帝の勝利を祝って、315年に元老院とローマ市民が建てたものと、伝えられております。

コンスタンティヌス帝の凱旋門 パリの凱旋門のモデルになったといわれる

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねて
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この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました、有難うございました。
観賞用としての「バラ園」は、イスラム教の宗教世界に始まって、ヨーロッパ各地へと広まっていきましたが、キリスト教とバラの関係はどうだったのか、「バラ図鑑」を見てみましょう。
『イスラム教に先んずることおよそ600年、初期ローマ帝国領のパレスチナ(シリアとエジプトの中間)でキリスト教は生れております。キリスト教は唯一絶対の神以外には従わないという教義のため、権力者に嫌がられ、迫害を受け続けます。それでも信者数が増えていったのは、2世紀末以後、大ローマ帝国の衰退による戦乱や、政治的、経済的な不安が続くなかで、精神的な平穏をめざす教えが、平安を求めていた人々の心をとらえていったからでしょう。
キリスト教は、華美、贅沢、淫欲など、精神的、物質的な欲望に否定的で、ときには罪悪とさえされました。そのため、キリスト教にとって、ローマ帝国の貴族を堕落させた淫靡な花、バラは受け入れ難いものでしかなく、イスラム教世界からもたらされ、ローマ帝国で広く流行した、入浴後にバラ水を使う習慣も嫌がられた』ということです。
聖家族教会
ヨーロッパを旅すると、コースの中で必ずと言っていいほど、イスラム教のモスクやキリスト教の教会を2~3ヶ所案内されます。イスラム教とキリスト教が一つの大聖堂に収まっているケースもあったりして、ヨーロッパの歴史と宗教の偉大さを感じさせられます。
スペインのバルセロナには、着工して120年余り経過してもまだ完成をみない、サグラダ・ファミリア大聖堂(聖家族教会)があります。アントニ・ガウディ(1852-1926)が設計・施工し、彼の死後も代々の建築士がそれを引継ぎ、今のペースで工事を進めると、完成までにあと200年ほどかかるとさえいわれております。
「工事現場を有料で見せる、世界でたった一つの建造物」だと、ガイドさんの言葉でした。

聖家族教会
「バラ図鑑」によれば『イスラム教では、白バラはマホメット、赤バラは絶対神アラーの象徴とされております。聖地メッカ(サウジアラビア)では、浄めに使われる大量のバラ水を供給するため、近郊にバラの大栽培地ができたほどだと伝えられております。
また、イスラム教の世界では、バラは神聖なものとして、浄めなどの宗教行事に使われるほか、料理や薬にも用いられました。また、庭園は、天国の楽園を表すとの考えから、神の花であるバラは、庭園には欠くことのできないものとして、必ず植栽されておりました』
・メッカについて
サウジアラビアのマッカ州の州都で、イスラム教最大の聖地とされております。
私たちは長らくメッカと呼び慣れておりますが、最近では、標準アラビア語の発音に近いマッカと呼ばれているようです。
イスラム教徒は一生に一度はこの地マッカへの巡礼が義務づけられておりますが、最も神聖な場所であるので、イスラム教徒以外は入場できません。
私たちは、「大切な場所」、「あこがれの地」を、例えば、「高校野球のメッカ、甲子園」とか「スキーのメッカ、苗場」とか表現しておりますが、使い方には配慮が必要かと思います。

マッカ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
「バラ図鑑」によれば、『ローマ帝国は4世紀末東西に分裂し、ゲルマン民族の侵略などにより衰退していきました。ローマ帝国の力が及ばなくなったアラビア半島のメッカで生れたマホメット(570ごろ~633)は、610年、イスラム教を創設します。
622年にイスラム教国家(共同体)が創設されると、すぐに領土の拡大が始まりました。
その勢力は3大陸にまたがり、中央アジアから北アフリカ、南ヨーロッパへ拡がる大イスラム帝国へと発展していきました。このことが各地のバラを移動させ、交雑を大いに進行させた』と書かれております。
マホメットはアラビア語でムハンマドと呼ばれております。隊商貿易を営んでいた資産家の女性と結婚し優雅に暮らしておりましたが、洞窟の中で時々瞑想する習慣がありました。
ある時、瞑想に耽って朦朧としていると、枕もとに天使ガブリエルが現れ啓示を受けたと伝えられております。 またこの時、衰弱しきっていたマホメットにガブリエルが与えた「黒い温かい飲みもの」が、アラビア語では力(チカラ)を意味するqahwah(カウア)と呼ばれ、cafeの語源になったというコーヒー伝説もあるようです。

福岡市 晴明会館蔵 「啓示を受けるマホメット」

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねておられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました、有難うございました。
「バラ図鑑」によれば、『紀元前1世紀ごろ、カエサル(シーザー、B.C.100~B.C.44)らによる権力争いが激しく行われた結果、都市国家であったローマは大きく領土を広げ、イタリア半島にローマ帝国が誕生したのです。領土はスペイン、フランス、ギリシャ、から西アジア、そして栽培バラの故郷ともいえるシリア、パレスチナに及びました。
ローマ帝国では、バラ水やバラ香油が大流行し、イタリアで算出される分量では足りず、西アジアや、冬季には遠くエジプトからも集められるほどでした。都市の市場にはバラ香油を扱う店が増え、一般民衆も争って買い求め、大いに賑わったといわれております。』
ここにユリウス・カエサルの名が出てきました。これはラテン語での呼び名ですが、英語ではジユリアス・シーザー、かのシェイクスピアの名作「ジュリアス・シーザー」であまりにも有名です。
カエサルについては、ローマの元老院とポンペイウスの勢力に抗して、反逆者の立場におかれるのを覚悟しながら全軍に号令した「賽は投げられた!・・・」という言葉や、エジプトの女王クレオパトラとの華麗なロマンス、また、B.C.44年3月15日、彼が暗殺者たちに囲まれ最期に発した言葉「ブルートゥス、お前もか・・・」という叫びなど、今から2000年以上前に生きた英雄であるのに、私たち日本人にとっても何故か身近な存在に感じるのは不思議なことです。

「バラ図鑑」によれば、『バラが香料や薬として利用されようになったのは、紀元前2600年ころからであり、自然採取だけでなく小規模ながら栽培もなされておりました。
しかし一年のうち一時期しか採れないバラ水やバラ香油は、稀少で高価なため王侯貴族の間で珍重されておりました。一般民衆の生活にまで入り込むのは、もう少し後の時代になります。
バラの新しい品種が、人の手による意図的な交配によって初めて生れるのは、フランスの片田舎ですが、そこえたどり着くまで、ヨーロッパのバラの歴史には宗教と戦争が重要な役割を果たしました。』
バラ水やバラオイルを作るバラ産業は、ブルガリア、イラン、モロッコなどの国々で盛んなようですが、特にブルガリアでは国立バラ研究所があって、品質の認定制度まであるようです。バラの芳香が心をなごませるバラ水は、肌の乾燥を防ぐ保湿性があり、また、抗菌性と消炎効果もあり、女性には欠かせない魅力のようです。
モロッコの習慣では、お客を家に招いた時に歓迎の意味を込めて、香水瓶に入れたバラ水を頭や顔、手などに振りかけることもあるようです。
国立民族学博物館の写真で見る<バラ水用水さし>の見事なこと、優雅な香りが漂ってくるようです。

「バラの図鑑」によれば、『バラが歴史上はっきりと登場するのは、チグリス、ユーフラテス川流域に発祥した、世界最古の文明の一つである、メソポタミア(現在のイラクのあたり)にさかのぼるとされております。紀元前2600年ごろメソポタミアに実在した、世界最古の都市ウルクを支配したギルガメシュ王の神話「ギルガメシュ叙事詩」には、バラが登場してくるのですが、バラの花の美しさについてではなく、バラのトゲについての記述がある』そうです。
世界最古の文明発祥地としては、先に記されたチグリス・ユーフラテス川流域と、パキスタンを流れるインダス川流域、そして中国の黄河流域を世界三大文明の発祥地として学習した記憶があります。また、エジプトのナイル川流域を加えて世界四大文明ともいわれております。それぞれの大河の河口はたびたび起きた洪水によって肥沃の土地となり、そこに人々が住み着くようになって文明を生み出しました。

講談社から「バラ図鑑」という本が出版されております。
編集委員として寺西菊雄 前野義博 村田晴夫 小山内 健の4名の先生方が名を連ねておられます。
この「バラ図鑑」のなかに、前野先生が担当された<バラの歴史 文化とのかかわり>という
コーナーがあります。この<バラの歴史>を何回かに分けて、ご紹介したいと思います。
それに先立ち、寺西先生を通じて講談社にご了解をいただきました、有難うございました。
「バラ図鑑」によれば、『新しい世界へ分布していったバラたちは、それぞれの地で異なった環境に遭遇し、それぞれがその環境に適した性質に変化していったのです。バラ科バラ属に含まれるバラたちは、他の花々とは一寸違って、一つの種があまり固定していないため、色、形、性質の違う他のバラどうしで簡単に交配ができたのです。そのことから沢山の交雑種が生れることになりました。また、バラの特徴としては「枝変わり」といわれる突然変異が多いこともあげられます。原種と考えられているバラの数は、100とも200ともいわれており、植物のなかでも多いほうだそうです』
<突然変異>という言葉がありました。私たちは日常的会話で使っておりますが、生物学的にこの事実を発見し命名した人は、オランダの生物学者ユーゴー・ド・フリース(1848―1935)という先生で、1901年のことでした、20世紀初めのことです。
バラの花は人類誕生の遥か以前から、交配を繰り返し突然変異を繰り返して、私たち人類と出会うことになったのですね、面白いお話です。
<バラの歴史>つづきは次回で・・・
「バラ図鑑」によれば、『原初のバラは、当然野生のノバラということになりますが、
北半球だけに見られ、そのなかでも乾燥に強い原種は、中近東からヨーロッパに存在し、
湿潤に適した原種は中国や東アジアに存在しております。
こうしたことから、最初のバラは、その中間地帯にあたるヒマラヤ山系のどこかで咲き始めたのではないかと考えられております』
興味深い、奥深い歴史があるものだと思いました。
ところで、地球上の世界各国を、ヨーロッパの国々とかアジアの国々とか、ブロックに振り分けて認識する慣習がありますが、では中近東や東アジアといった場合、それらに属する国々はどこどこなのか、何ヶ国あるのか正確にお分かりでしょうか?
調べてみました。しかし前回、白亜紀のことでは長すぎた反省があるので、この件は省略します。
<バラの歴史>つづきは次回で・・・
『原初のバラは約7千万年前、白亜紀末ごろにさかのぼります。その場所はいったいどこだったのか。』 という文章からこの<バラの歴史>が始まっております。
そこで白亜紀ってどんな時代?・・・調べてみました。
そもそも白亜とは、チョークと呼ばれる石灰岩のことで、白亜紀とは地層から設定された地球の地質年代の一つであり、1億4000万年前から6500万年前をいうそうです。
今でも、英仏海峡をはさんでイギリスの南岸ドーバーとフランスのノルマンジー地方の海岸には、数十メートルの高さに切り立った真っ白い崖が続いているのが見られるようですが、これは、海底にたまった石灰の泥や石灰質のプランクトンの殻からできているといわれております。
このチョークは英仏海峡に限らず、世界中のいたるところに分布して、大陸の内部にまで及んでいるそうです。このことから白亜紀にはチョークのたまる浅い海が、陸地の奥まで広がっていた時代と考えられております。
またこの時代は、植物的には、子房をもたず胚珠が裸出している松・いちょう・そてつ・杉などの裸子植物に代わって、胚珠が子房内に包まれている被子植物が栄える時代になっていくようですが、昆虫や鳥や哺乳類、硬骨魚類がだんだん多くなってきて、花粉媒介や種子散布などそれらとの関わり合いを多くもつ被子植物が、自然と勢力をのばすことになったのでしょう。
<バラの歴史>つづきは次回で・・・